昭和54年01月22日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
昨日、田主丸のむつやに出入りをされる、卸の大将だろうと思います。昨日ここへ参って見えましたから、実は先生にお伺いをしたいことがあります。と言うて見えられました。と言うのは今度、梶原君が学院に行くことになったんです。ようやく一年、大変まじめに商売も、ようやく上手にお客さんの人気も大変よい。それがようやく一年、慣れたか慣れないか。という時に合楽に引き抜かれる。という事はどういう事でしょうか。というわけなんです。
もう本当にあのう、私の父の時代からむつやには、取り引きがありまして、私の時代になり、今の社長との心易うさせて頂いて、それが横に居って見ておられない。というわけなんです。だから学院行をやめさせて頂く。というわけにはまいりませんでしょうか。と言うて申しますからね。それは出来ないでしょう。と私が申しました。と言うて私は奨めて言うたわけではないのですから。けれどもね、ここにはいよいよ本当なことから真実なことへ。ということになるのです。
それは目先の事を言えば、ようやく商売もわかってきた。むつやとしてもよい。いうなら良い店員が出来た。と喜んでおる矢先にもう。ところが、ここで思うて頂かなきゃならんことは、まるっきりむつやはね。この、金光様の先生の養成所のような感じですもんね。と言うて話したことでした。末永紀久男君、野口君、渕上君。そして今度また、梶原君と。もう本当に渕上君でも末永君でもそうでしたが。
本当にようやく、あの店の事の事情もわかって、よか番頭さんと店員が、あのお客さんからも信用がついてきた頃になると、がつがつ引き抜かれるんですから。ところが、あそこの社長はこういうふうに言ってますよと。もう本当にそれは困ります。店としては。ところがね、その合楽に送り出した、修行生に出させて頂いたたんべんにむつやが大きくなっておる。という事実がございます。一番初めの末永君の時には、あそこへむつやが進出して参りました。そして立派なお店が出けた。
二度目には、その、ひまわりという小さい店ですけれども、ベビ-洋品の店が出けた。ね。今度それから去年は、も、こればっかりはも、思いもかけないのに、元のお店のところに立派な住まい住宅が出けた。もう合楽に修行生を送り出すたんべんに、そのむつやは大きく。困るです。目先のことは。けども、おかげを受けておる。というその事実はもう、だから否めない。というわけなんです。そう言うながらもやっぱり、なら社長としても嬉しい事じゃ実際はないでしょう。
ようやく覚えたのが、ね。またあ新しう入れんならんのですから。だから、親身に取引きをしとるそのお店の大将がもう、あのたまりかねて合楽に昨日は見えたわけです。ね。だからこれはもう、あなた方が言われるのが本当なんですよと。だから本当とは真実と書く。ね。けれども信心はね、本当の真実を求めていくことなんです、本当とは真実と書く。これは昨日、千恵子先生が頂いた御教えです。本当から真実へ。というね。だからも人間的な本当ということはね。
成程店が繁昌するかも知れない。素晴らしい事になって行く様にあるけれども、けれども本当のおかげになっていかんのですよ。と。あなたが御承知かも知れんけれども、あちらのお母さん達が女手でやっておった時分ね。そしてあぁいう事で早死にされて、けれどもやはり、あれだけの信心が霊の世界に入ってでも、活躍活動というのがです、現在むつやがま、あぁして繁昌しておる元だと私は思っておるし、また社長もそう思っておるようです。だからこそ神様の事にかぎっては、人間心はいれられないと。
いやあのう社長でもそげなふうに言うとります。けども私から見て、ちった無理じゃないだろうか。と思いましたから、それが、なかなか本当な事をより真実なこと。真実のことを言っても、信心のない人にいっぺんにわかるはずありませんけれども、まどうぞむつやの事を祈ってもらい、思うてもらってありがとうございます。どうぞ長い目で見よって下さい。と言うてま、帰ってもらったんですけれどもね。ここではね、いうならば本当の真実のことを、皆さんに聞いてもらってるわけです。ね。
だからこれほどの真実を皆さんに、いうならば神様の心の底を割ったようにして、しかも微に入り細にわたって、しかもかき口説く様に伝えておられるのです。最近の研修の時には、も、こういう有難い信心をです、もう絶対間違いのない人間の幸せの道をです、しかも楽しゅう有難う、愉快にすら行じていけれる道をです、どうして皆が分らんのだろう。これを分らせる何とか、素晴らしい手立てはないだろうかと。私は私よりも頭のよい修行生の先生方に相談するのです。もちっとよい言葉はないだろうか。
もちっと素晴らしいよい表現方はないだろうか。誰でも合点して成程、いやもう結局は、結局、合楽の信心は単純にならなければだめだね。んなら世の中にそんな単純な人は沢山はおらん。単純という事は私が言う、も、バカとアホウで道を開け。というそれなんです。ね。あれはちょっと、お前は単純だね。とか言うでしょう。お前はちったバカじゃなかろうか。という悪口なんです。けども、合楽の話しだけはやっぱり単純にならなければ頂けんです。理屈を言いよったんじゃ。ね。
だからんならそれがね、今日の御理解で言うとです、神の言う事は途中で落してしもうてね、それこそ神の言う一言は、千両の金にも代えられない程しの神徳が満ちあふれておる、お言葉の一言一言をです、途中で落としてしもうて、そしておかげが受けられんで神を恨むような者がある。と言われるが、私はそこでハタと今日は自分の心の中に思うてみたんです。もう、何十年も前に頂いた御理解ですけども。ね。『言うばっかりの先生のところに聞くばっかりの信者』と頂いた事がある。
これはまよそへんの教会の、お話しが上手な所の先生達のところで、人がいっちょん助からん所が沢山あるわけです。だからそげんところじゃろう。ち私は思いよったです。ところが今日はそうじゃないね。言うばっかりのお前だ。とこう私は指されたような感じがするんです。私はもう今日を限りにです、あの研修の時なんかでも、どうして分らんじゃろうか。どうした分ってくれんのであろうかと。例えばこの寒修行でもです、どうでもこの寒修行だけには、この人だけは出て貰いたいという人が何人もあるんです。
ところが、私が月例祭の時に、かきく口説くように言うとっても出て来んでしょうが。そうですね。だから言う事を聞かんのじゃない聞かせきらんのだ。結局こちらが、言うばっかりの先生で聞くばっかりの信者だ。という事になるです。ね。皆さんがです。神の言う事は道に落としてしもうて、ね、千両の金にも代えられない程しの、神徳満ちあふれておるものを、頂ききらない。とするならば、これは頂ききらせないのであり、いうなら、私が言うばっかりの先生で、みんなが聞くばっかりの信者。
という事になるのじゃないでしょうか。だから私がこちらへ向かって、どうしてわからんじゃろうか。どうかわからせる手立てはないだろうかち。手立てなんかいらん。問題は私がもっともっと素晴らしい先生になれば、それでよいのだと。ま、今朝は思わせて頂いたような事でした。ね。本当から、いうならより真実をより本当を。より聞いて頂いておる。これだけは事実である。けどもそれを、いうならば聞くだけでとどまっておる。とするならばです、ね。これは途中で落としてしまっておる。
とするならばです、これは途中で落としてしまって、神を恨むようなものがある。というならばです、神を恨ませるのも、言う事を聞かせられんのも、これは取次者のもう、とにかく力によることだ。いや今日を限りに、どうしてわからんじゃろうか。と言ったり思ったりせずに、どうしてわからんじゃろうかは、こちらの方へもって行かなきゃいけないな。と言う様な事を、今日は強く感じさせて頂きました。
どうぞ。
どうして分らんじゃろうか。ということはですね、ま、いうならばのんぼり向いてツバ吐くようなもんですよね。これは、だから皆さんの家庭においてもそうです。家の嫁はどうしてわからんじゃろうか。家の息子が。とこう言うならね。そりゃお母さん、あんたがわからせきらんとよ。そりゃお父さん、あんたがつまらんからだよ。あんたの言う事はずだよとなるわけなんです。家の息子が言う事聞かん。出来そこなう。そりゃ出来そこなうはずだよと。
だから、それを向こうにもって行かずにこちらへいっつも、そう言いながら私は、ここで教えを説く事にかぎってだけはです、どうしてわからんじゃろうか。と思いよったです。こんな素晴らしい事をこんなありがたい信心を。と思うとったけれどもね。そういう素晴らしい信心であればある程に、それをみなさんの一人一人にわかって、千両の金に代えられない程しのお徳を、皆さんに頂いてもらわなければならん。それには、取次者お前自身がもっとシャンとせよと。神様が言ってござる事を今日は感じますですね。
どうぞ。